ルレクチェの歴史 伊丹三四次 著

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1996年に伊丹三四次さんによって書かれた農業技術体系を以下抜粋です。

〈地域の状況と私の経営〉  

 1. 地域の状況
 私の住む加茂市は新潟県のほぼ中央に位置し、古くから越後の小京都といわれている。県立自然公園粟ヶ岳を水源とする加茂川は、三方を山に囲まれた市街地を縦貫して信濃川に注いでいる。その右岸は平坦地で、明治中期のころから果樹栽培が行われている果樹専業集落(38戸)で、ここが私の住居と園地のある山嶋新田 である。昭和34年に、新農村建設事業によって共同配管を設置し、集落ぐるみの共同防除を実施したが、今は大型SS3台で共同防除を実施している。なお、昭和36年、続く昭和38年の豪雪で、約40%の樹冠の広がりを失った。
 山嶋に果樹が栽培されるようになった理由は、雨が少し多く降るとすぐ信濃川が増水し、川の左岸、右岸をとわず洪水にみまわれるが、ダイズ、野菜などは被害を受けやすいので、高いところで収穫が出来る果樹栽培を始めたと伝えられている。当初はモモとナシ、ブドウが栽培され、増水のときには川舟がナシ棚の上を通ったということである。
 現在、地域における果樹の栽培面積はナシが中心になっている。

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 2.私のル・レクチェつくりの経過

(1)ル・レクチェ(ロクチー)との出会い
 私が生まれた昭和6年には、もうロクチー(後にル・レクチェ)の名が聞かれた。父は新しい品種が出ると植える人だったというからであろう。ところが、ロクチーは何年たっても実がつかないので、10本買った苗のうち9本は人様にあげたそうである。だが、まだこのうちの何本かは村の果樹園の中に大木として健在であり、我が家に残された1本も、新潟の降雪に耐えて500個くらいの果実を収穫し続けている。 私は終戦と同時に、母を手伝ってナシ栽培を始めたが、母は何を聞いてもわからず、教えてもらうことができなかった。私は村で良いナシを栽培している人に聞 いて回ったが、どんな剪定をしても花芽は着くものというばかりであった。だが、私の父と同年だった高橋さんは四芽剪定を教えてくれた。このときは本当に嬉しかった。
 昭和24年8月から、途中入校ではあったが、新潟県果樹長期講習生になり、初めて新潟県園芸試験場(当時は園芸試験地)につれていってもらった。ここで芽接ぎの指導を受けた。芽接ぎのことは農業講義録などから多少の知識を得ていたので、最初のモモの実技指導では50人の講習生中から選ばれて、試験場の田野先生 (後に場長)より出来ばえの良さをほめられ、このことが大きな自信となり、私が本格的に果樹栽培に取りくむきっかけとなった。昭和24年9月上旬であったと思う。
 その後、長期講習生は県外視察として、長野県の伊那谷の桃沢躯に匡勝先生に二十世紀ナシの剪定、その他の指導をうけに出掛けた。そのときは、試験場(試験地 )の田村技師の案内で、受講生は4名であった。これが、私と桃沢先生との出会いである。豊野のリンゴ園なども視察して、須坂の宿に行くのに、千曲川の堤防を歩いたときのことである。みんな皮靴を履くのは始めての人ばかりで、月のきれいな夜であった。 千曲川の堤防の上は草が多く夜露で皮靴が濡れるので、跣で歌を唄いながら宿についた思い出もある。このときは米2升にお金4,000円を母からもらい、当時の加茂町役場(現加茂市役所)で技術修得のための米移動証明書に役場の印を押してもらって、2泊しないと行って帰ってこられない時代であった。真白なワイシャツ も帰りには夜汽車の煙で黒ずんでいた。
 昭和27年に交換分合した50aの畑に植えた桃沢式仕立ての二十世紀ナシが、昭和41年に農林大臣賞を受賞することができた。桃沢先生がお亡くなりになられたとき には、全国梨栽培者代表として紹介され霊前で弔辞を述べさせていただいた。あらためて感謝しご冥福を祈るものである。

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(2)巨峰がロクチー(ル・レクチェ)に変わる
 私がル・レクチェ栽培に本格的に取り組むきっかけとなったのは、巨峰がこんなに高値に売れるなら、それより美味しいロクチー(当時の呼び方で、昭和58年にル・レクチェに改められた)なら4kgのブドウ箱にでも詰めて御歳暮用にすればきっとあたるだろう、とのひらめきであった。なお当時、ナシは15kg詰めが当然 の時代であった。
 そのときに役立ったのが昭和34年、山形県で開かれた全国西洋梨大会に参加した思い出である。そのときに見た西洋ナシバートレットの剪定の仕方は日本ナシとは全くちがっていた。そこから、私のロクチーが実どまりが悪いのは、日本ナシ用の剪定をやっていたからだと思いあたり、バートレットと同じ剪定を行ったところ俄然実どまりがよくなった。これならロクチーも大丈夫と思い、苗木を植え(昭和38年)、高接ぎ更新(昭和40年)にふみきった。しかし、二十世紀ナシに力の入っていた当時だけに、これからはロクチーと新高ナシが世に出ると友達に話しても、誰も耳をかたむけてはくれなかった。
 このときには、9m×9mに植えた20aの二十世紀ナシ(15年生)の木に150~200口の高接ぎ更新を行ったので、ブドウ箱4kg詰で200箱販売できるようになった時点 で、見本の4kg箱を持って長岡中央卸市場に交渉にいった。そのとき対応してくれた佐藤部長は「山伴さん(箱に山伴とあるのは、伊丹農園の別称)、長岡卸市場だよ。ロクチーの美味しいのはわかるけど、量が少ないのではね」と断られた。しかし、「4kg箱で200箱はありますよ」といったら驚いて、「よしやりましょう」といって手をたたいて喜んでくれたのを今でも忘れられない。そのとき、佐藤部長が「山伴さん、いくらの値段で売ればいいの?」と聞くので「手取り1箱1,000円ほしい」と言ったら1,300円で売ってくれた。当時二十世紀ナシの秀品は15kg箱で1,800円のときであった。次の年は2,500円となり、また次の年は3,500円となった(二十世紀ナシは15kg2,000円)。しかし卸値3,500円のロクチー(ル・レクチェ)が小売価格6,000円とのことで驚き、自分で小売をしようと思い立ち、新潟三越での試食販売と県内在住のお医者さん に対する通信販売を試みた。
 この通販が軌道にのって何年か後、当時の加茂郵便局長から話があった。昭和59年に郵便業務も機構改革があり、地元郵便局で新たな宅配商材を探していたときだったからで、地元局と共同して果実宅配の可能性を探ることにした。試験用には夏場のモモ「大久保」を使い、配送された果実を再配達してもらう方法で、帰って来たモモの傷み具合を調べた。この結果、果実の傷みは少なく、本命のロクチー(ル・レクチェ)の輸送にも自信が得られた。通販は本格化し、現在では地元の 加茂郵便局と栽培者の双方に大きなメリットをもたらしている。
 そのころは、まだ近隣にロクチー(ル・レクチェ)生産者がごく少数であったが、将来の栽培普及を見越して、地元市場の他に東京市場の開拓をも狙い、東京荏原 青果の社長(新潟県潟東村出)宅と会社に伺った。昭和51年10月のことで、ロクチーの話を聞いていただいた。社長室には各部長も居られ、ロクチーの品質からすれば、いくら栽培が増えても大丈夫との太鼓判をおされ、喜び勇んで帰宅したことを思い出す。
 また、新潟三越での試食販売は、昭和55年からであった。
 昭和58年には日本橋三越デパートから販売依頼があり、4kg詰め一箱が7,000円で大好評のうちに販売が終了した。
この西洋ナシの名前の件では忘れられないことがある。それまで栽培者はロクチーといい、県はル・ルクチェと呼んでいた。そこで私は、長野県の桃沢先生に伺いに行ったら、先生は「伊丹君、あれはル・レクチェだよ」といわれた。こうなると一つ困ったことが起きた。それは、前途の三越で正式の名前でないと売れないといわれたことであった。しかし因縁とはよくしたもので、ちょうどそのころ、元日本園芸農業協同組合連合会専務の大石先生に約30年ぶりにお会いした。大石先生は事情を聞くや即座に、「明日、農林省に出向き、新潟県、山形県、長野県の桃沢先生等とも連絡を取りながら名前をはっきりさせましょう」といってくださった。 そして程なく、正式名称はル・レクチェとされ、私はル・レクチェとして日本橋三越で販売することができた。なお、この正式の名称が確定するまでの間に、私は県の方から「伊丹君、県の特産品をかってに名前変更しては困る」とお叱りを受けたこともあったが、現在は正式名称が一般に使われている。

(3)日本橋三越での販売から加工が生まれた
ル・レクチェの加工の始まりは、東京日本橋三越でル・レクチェを販売したさいに聞いた、「こんなに美味しい西洋ナシ(ル・レクチェ)が1ヶ月くらいで都民の口から消えるのは誠に残念」と都民からのつぶやきがきっかけであった。 幸い、私の住む加茂市には県の食品研究所があったので、さっそく相談したところ、「果物の加工といえば缶詰くらいのもの、こんなに高価な西洋ナシを缶詰にしても買う人はいないでしょう。何処で売るのですか」といわれた。それでも、日本で最高の果実を一年を通じて全国の皆さんに味わってもらいたいとの思いから 、研究所に足を運び、種々の助言や技術指導を得ながら、試作を重ね、缶詰、ビン詰、ジュース、ワイン、ジャムおよびゼリーなどを完成した。 この間、ワインの委託とともに御販売免許も取得した。現在、これらの製品は三越デパートや地元加茂市の物産館および新潟市の酒卸店を通じて県内酒小売店で売られている。なお、通信販売などを通じて多くの人たちに賞味していただいているが「初めてこんな美味しい物を食べた」というお客様からのお便りが何よりの励 ましになっている。フランス政府より食文化功労賞を授与されたパトリック・パジェスさんから「洋ナシのジュース、ワインを飲むために加茂まで足を運んだ甲斐があった。果物のもち味ががよく生かされていて、まるで雪どけの太陽のような味だ」との祝辞を受けたことを大変誇りに思っている。 このほか、「もう何も食べられなかった85歳の母が、人様から一個いただいたロクチーを喜んで食べて、おかげで最後の親孝行ができた」とか、「最高のブランデーよりもル・レクチェが美味しい」といったお手紙を見るにつけ、これまでのル・レクチェ栽培と加工の苦労も飛んでしまうが、同時に、さらなる精進をしなければ との思いを強くしている。

農業技術体系1996年伊丹三四次著

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